ギフテッドの集い

ギフテッドの人達がより良い人生を送るために情報交換をするブログです

ギフテッドと山籠もり

こんにちは、やすくんです。


数年前から挑戦してみたいと思っていた山籠もり(山小屋を転々としながらの登山旅)をとうとう実行に移しました。


山籠もり中はより身近に神(自然の法則)を感じることが出来ました。例えば、この崖から滑落したら死ぬだろうなとか、冬にここで遭難したら凍死するだろうなとか(笑)ここで死んで、誰にも発見されなければ、自分の肉体を構成する物質はここの植物や動物に吸収され、ここで再生されるんだろうなとか、簡単に実感できます。死は自然の法則の一部である「命の再生」へと繋がる重要なパートなのに、街中では実感することが少ないですよね。スーパーで買って来た肉を食べて、残飯はゴミとして回収されて、排泄物は下水道に流れていき、第2次・第3次産業を携わっていたら、死や命・物質の循環について考える機会も少ないのは当然でしょう。しかし、山に篭もると、簡単にこの世界の本質を実感できます。


山籠もりの生活は普段の生活よりもシンプルで、余分なものから解放された感じです。重要なのは生命を維持する衣食住のみで、その他は二の次となります。例えば、徒歩以外の交通手段がなかったり、部屋に電源がなかったり、お風呂に入れなかったり、汲み取り式のトイレしかなかったりと、普段の生活で当たり前のものも、山籠もりの生活では「余分」とされます。環境問題を考える時、こう言った「余分」なものを手放すことが出来るかどうかが大きな鍵を握ると思います。例えば、入浴は天然の温泉に浸かるだけ。シャンプーなどは使わない。温泉までの移動は徒歩。こうすると、環境への負荷をぐっと減らすことが出来ます。


余分なものから解放されると同時に、色々な事について考える機会や時間を得ることが出来ます。日常の生活から離れると、その生活が客観的に見えるようになり、それについてふと疑問が生じたり、変えてみたいと思ったりもします。そして、普段なら車の運転に集中している時間なんかも、徒歩であれば考える時間に割り当てたりすることも出来るようになります。文明の利器や文明的な暮らしはほとんど全ての作業や仕事を短時間でこなせるようにし、人に自由な時間を与えるはずなのに、実際にはその逆となっているように感じます。つまり、余分なものが増え、それらに束縛され、自由な時間を失っていると言うことです。


今回の山籠もりを通じて、文明的な生活は人に便利さを与えると同時に、生命の本質から人を遠ざけているように感じました。そんな生活に囚われてしまうことなく、もっと自然に、もっとシンプルに、もっと本質的に生きていきたいと改めて望むようになりました。


ギフテッドの皆さんはどう思いますか?