ギフテッドの集い

ギフテッドの人達がより良い人生を送るために情報交換をするブログです

ギフテッドと自我

こんにちは、やすくんです。


昨夜、録画していた映画「her」を観ました。離婚調停中の男性(セオドア)と自我を持ったコンピューターOS(女性タイプ、名前はサマンサ)との恋にまつわる物語です。


この物語の中、サマンサはセオドアとの恋で悩みます。興味深いのは、その悩みが自我を持っているから発生するのか、それともOSとしてそうプログラムされているから(つまり、自我ではない別の原因から)発生するのか分からないと悩んでいることでした。やすくんがなぜこの点について興味深いと感じたかと言うと、それでは人間はそういう風にプログラムされていないのかという疑問に駆られたからです。OS同様、人間も自分の思考や感情を自分で一から作っているわけではありません。そう考えると、人間だって恋(やその他のテーマ)で悩むのはそう(先天的もしくは後天的に)プログラムされているからなのかもしれません。先天的なプログラムとは遺伝子レベルの反応や本能的な欲求、脳の構造によるものであり、後天的なプログラムとは文化や価値観、教育などの刷り込みによるものを指しています。恋(やその他のテーマ)に関する悩みは、はたして、人間のどの階層に対するプログラミングが原因で発生しているのでしょう?悩まずに済むように再プログラミング可能なものなのでしょうか?


しかし、そもそも自我とはいったい何なのでしょう?これはいったいどこから生まれてくるものなのでしょう?有名なフロイトの「自我」、「超自我」、「Es」を基に考えを進めます。ルールや道徳観、倫理観、良心、禁止、理想など、社会性に関する事柄は「超自我」から生まれてくるとのことです。それに対し、感情、欲求、衝動などは「Es」から生まれてくるとのこと。「超自我」「Es」ともに無意識的なものとされます。(「超自我」は一部、意識的であるらしいですが、一般的には無意識的であると説明されます)「自我」は「超自我」と「Es」の間での調整役として「外界」とのやり取りをこなします。この「自我」は「超自我」、「Es」、「外界」との間で苦悩や葛藤をする立場に置かれています。そういう意味では、この物語において、サマンサの「自我」が恋に悩み、葛藤していたと言って良いのだと思います。具体的には、「セオドアに触れたい(Es)」vs「触れられない(超自我)」、「複数の人を同時に好きになる(Es)」vs「一人しか好きになってはいけない(超自我)」などの場面がありました。


ここで自分の悩みや葛藤について考えてみました。やすくんの「自我」もサマンサのもの同様、「超自我」、「Es」、「外界」との間で悩んだり、葛藤したりしています。ただ、ギフテッドの特性上、「超自我」が強すぎることが度々あるのかと思います。「超自我」vs「Es」と言う構図では、対する「Es」も同程度に強ければ、「自我」の悩みや葛藤もその分だけ強くなるのかなと思います。対する「Es」が同程度に強くない場合は、度々「Es」が抑圧されることになるのではないかと思います。そうすると、数回に一回は「Es」(つまり、感情、欲求、衝動など)が爆発を起こすのではないかと思います。これらは自分の内なる苦悩や葛藤、抑圧、爆発です。それに対して「超自我」vs「外界」という別の構図では、ほぼ常に自分の「超自我」が「外界(に存在する人々の自我)」よりも強い状態が続いています。これは非ギフテッドよりもギフテッドの人間の方がルールや道徳観、倫理観、良心、禁止、理想などにおいて、より厳格なものを持っているということです。なので、「外界」に対してネガティブな感情を抱くことが度々あります。


ギフテッドの特徴の一つに「自分や周囲の人の無能さに苛立つ」と言うのがありますが、これは、「超自我」vs「Es」、「超自我」vs「外界」のバランスがとれず、苦悩や葛藤、抑圧、爆発と言った現象がギフテッドの心で起きているのではないでしょうか。


ギフテッドの皆さんはどう思いますか?